人間は本質的に利己的か

自己と他者のあいだで揺れる存在

「人間は結局、自分のことしか考えていない」
そんな言葉を耳にすることがある。

競争、争い、裏切り。
歴史や日常を振り返れば、
人間の利己性を示す例はいくらでも見つかる。

しかし一方で、
他者のために尽くす行為や、
見返りを求めない善意も確かに存在する。

では、人間は本質的に利己的なのだろうか。
それとも、その理解自体が単純化されすぎているのだろうか。

利己性は否定できない側面である

まず、
人間が利己的な側面を持つこと自体は否定しがたい。

生存を優先する
苦痛を避け、快を求める
自分に有利な選択をする

これらは、生物として自然な振る舞いだ。
進化の観点から見れば、
自己保存的な行動はむしろ合理的である。

この意味で、
利己性は人間の欠陥というより、
存在条件の一部と言える。

利他的行動もまた自然に生まれる

しかし、
人間の行動をすべて利己性に還元するのは難しい。

見返りのない親切
自己犠牲的な行動
匿名での支援

これらを
「結局は自分が満足するためだ」と説明することは可能だが、
その説明はやや万能すぎる。

何でも利己性で説明できてしまう理論は、
同時に何も説明していないとも言える。

人間には、
他者の感情に反応し、
自分の利益とは直接結びつかない行動を取る能力も備わっている。

利己と利他は対立しない

利己性と利他性は、
しばしば正反対の概念として語られる。

だが実際には、
この二つは完全に分離できるものではない。

他者を助けることで、
集団全体の安定が高まり、
結果として自分も守られる。

このように、
利他的行動が長期的には利己的な結果をもたらすこともある。

つまり、
人間の行動は
「利己か利他かの二択では捉えきれない連続体」
の上にある。

社会が利己性を強調することもある

人間が利己的に見えるのは、
個人の本質というより、
社会構造の影響である場合も多い。

成果主義
競争的評価
希少資源の配分

こうした環境では、
自己利益を優先する行動が合理的になる。

このとき、
利己性は個人の性格ではなく、
「制度によって引き出された振る舞い」として現れる。

利己性をどう扱うかという問題

重要なのは、
人間が利己的かどうかという問いそのものよりも、
「利己性をどう扱うか」という点かもしれない。

利己性を否定し、
存在しないものとして扱えば、
それは歪んだ形で噴き出す。

一方で、
利己性を絶対視すれば、
他者への配慮は軽視される。

人間は利己的であり、
同時に利他的にもなり得る。
この前提を受け入れた上で、
どのような制度や関係性を築くかが問われている。

本質とは固定された答えではない

「人間の本質」を一言で定義しようとすると、
必ず何かがこぼれ落ちる。

人は状況によって変わり、
関係によって振る舞いを変え、
問い続ける存在でもある。

利己性は確かに存在する。
だが、それがすべてではない。

人間の本質とは、
一つの性質に収束するものではなく、
「揺れ動き続ける可能性そのもの」
なのかもしれない。

結び――人は利己的であることを超えられるか

人間は利己的だ。
しかし、それだけでは語りきれない。

他者を思いやることも、
協力を選ぶことも、
問い直すこともできる。

その可能性があるという事実自体が、
人間を単なる利己的存在以上のものにしている。

人間は本質的に利己的か。
この問いへの答えは、
人間がどのように生きるかによって、
常に書き換えられていくのだと思う。

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