守られるべきものの正体
「正義」という言葉は、
強い響きを持つ。
正義の名のもとに行動する。
正義を実現する。
正義に反する。
多くの場合、
正義は疑われない。
だが本来、
問われるべきなのは正義そのものの立ち位置ではないだろうか。
正義は、
誰のために存在しているのか。
正義は個人の内側から生まれる
正義の原型は、
個人の感覚にある。
不公平だと感じること。
理不尽だと感じること。
傷つけられたという感覚。
これらは
極めて主観的だ。
だから正義は、
本来、複数存在する。
人の数だけ、
正義の芽はある。
この段階の正義は、
誰かのためというより、
「自分が納得するため」のものだ。
社会が正義を制度化する理由
社会は、
無数の正義をそのまま放置できない。
衝突が起きるからだ。
そこで正義は、
法律やルールとして制度化される。
このとき正義は、
抽象化され、
平均化される。
誰か一人の正義ではなく、
「多くの人が受け入れられる正義」へ。
だがこの瞬間から、
正義は誰かを守ると同時に、
誰かを切り捨て始める。
正義は弱者のためか、多数派のためか
正義はしばしば、
「弱者のためのもの」と語られる。
確かに、
無制限な力から弱い立場を守る役割はある。
しかし現実には、
正義は多数派の合意によって形作られることが多い。
つまり正義は、
弱者のためでもあり、
多数派の安定のためでもある。
ここに緊張関係が生まれる。
正義が暴力に変わる瞬間
正義が危険になるのは、
自らを疑わなくなったときだ。
「正しいのだから」
「正義の側だから」
この確信は、
対話を不要にする。
異なる意見は、
誤りではなく悪と見なされる。
このとき正義は、
誰かを守るためではなく、
排除を正当化するために使われる。
正義は目的ではなく、手段である
正義は、
それ自体が目的ではない。
幸福のため。
共存のため。
衝突を最小限にするため。
何かを実現するための手段にすぎない。
にもかかわらず、
正義そのものを守る対象にしてしまうと、
本来の目的は見失われる。
正義を守るために、
人が傷つく。
その逆転は、
決して珍しくない。
結び――正義を問い続けるという責任
正義は、
誰かのために存在する。
だがその「誰か」は、
固定されていない。
時代によって、
社会によって、
立場によって変わる。
だからこそ、
正義は一度決めて終わるものではない。
正義を問い続けること。
それが、
正義が暴走しないための唯一の責任なのかもしれない。
正義は、
信じるものではなく、
扱い続けるものだ。
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