関わらないという選択
社会には、
無数の出来事と問題が存在している。
不正、差別、戦争、貧困、環境破壊。
それらのすべてに対して、
人は関心を向け続けることはできない。
だからこそ、
「無関心」という態度は日常的に選ばれる。
では、その無関心は倫理的に許されるのだろうか。
無関心は「何もしない」ことではない
無関心は、
単に行動しない状態ではない。
それは、
関与しないという選択であり、
注意を向けないという意思表示でもある。
行動が倫理の対象になるように、
行動しないこともまた、
倫理から完全に自由ではない。
無関心は中立ではなく、
状況によっては
現状を維持する側に立つ。
すべてに関心を持つことは不可能である
一方で、
すべてに関心を向けることが不可能であるのも事実だ。
人の認知能力も時間も有限であり、
関心には必然的に偏りが生じる。
無関心そのものを
即座に非難することは、
現実的ではない。
倫理は理想だけでなく、
人間の制約を前提に構築される必要がある。
距離を取ることの倫理性
無関心は、
必ずしも逃避や怠慢とは限らない。
過度な情報や感情にさらされることで、
判断力や行動力を失うこともある。
一時的に距離を取ることは、
自分を守るための
正当な選択である場合もある。
問題は、
「距離を取ること」と
「存在を否定すること」を
混同してしまう点にある。
無関心が問題になる瞬間
無関心が倫理的な問題となるのは、
自分の立場や行動が
明確に影響を及ぼしている場合だ。
沈黙が同意と受け取られる場面。
見過ごすことで
被害が拡大する状況。
そのとき無関心は、
結果として加害構造に組み込まれる。
意図がなかったとしても、
影響が消えるわけではない。
関心は義務か
では、
人は関心を持つ義務があるのだろうか。
倫理は、
すべての人に同じ重さを課すものではない。
立場、能力、状況によって、
担える責任は異なる。
関心を持つこと自体を
強制することは、
別の暴力になりうる。
重要なのは、
「知ってしまった後にどう振る舞うか」
という段階にある。
無関心と誠実さの境界
無関心が倫理的に許されるかどうかは、
その態度が
誠実さを保っているかに左右される。
自分には関われないと認識すること。
その限界を正直に引き受けること。
そして、
関われる場面では目を背けないこと。
無関心を装って
責任から逃げるのか、
自覚した上で距離を取るのか。
そこに、
倫理的な差が生まれる。
結び――完全な関与も、完全な無関心もない
人は、
常に何かに関心を持ち、
同時に何かに無関心である。
倫理とは、
その選別の過程を
どれだけ自覚的に行えるかに関わっている。
無関心は、
必ずしも悪ではない。
しかし、
無関心であることを
考えなくてよい理由にはならない。
問い続ける姿勢そのものが、
無関心と倫理を分ける
ひとつの境界線なのかもしれない。
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