努力は報われるべきか

期待と現実のあいだ

「努力は報われる」
この言葉は、
励ましとして語られることもあれば、
現実を覆い隠すために使われることもある。

努力すること自体は尊い。
だが、
努力は本当に報われるべきなのだろうか。

そして、
報われない努力は
どのように扱われるべきなのか。

努力は結果を保証しない

まず明確にしておく必要がある。
努力と結果の間には、
必ずしも比例関係はない。

能力、環境、運、
社会構造やタイミング。
努力はそれらの影響を受ける。

この事実を無視して
「努力不足」という言葉を使うとき、
個人は不当に責任を引き受けさせられる。

努力は条件の一部であって、
結果の保証ではない。

それでも努力が評価される理由

ではなぜ、
努力は評価されるべきだと考えられてきたのか。

一つには、
努力が行動の動機を生むからだ。

結果だけを評価する社会では、
人は挑戦を避け、
失敗を恐れる。

努力を肯定することは、
未来への不確実な投資を
社会が許容するという意思表示でもある。

努力信仰の危うさ

努力が美徳として強調されすぎると、
別の問題が生じる。

成功は努力の結果だと語られ、
失敗は努力不足として処理される。

この構図は、
構造的な不利や偶然性を不可視化する。

努力を称える言葉が、
無意識のうちに
他者を責める道具になることもある。

報われるべきなのは何か

「努力が報われるべきか」という問いは、
実は二つの問いを含んでいる。

一つは、
努力した人は成功すべきか。
もう一つは、
努力した人は尊重されるべきか。

前者は現実的に保証できない。
後者は、
社会が選びうる態度だ。

結果ではなく、
過程をどう扱うか。
そこに倫理的判断の余地がある。

努力しない自由と、努力できない現実

努力は選択であるべきだ、
という考えもある。

だが、
努力する余力そのものが
不平等に分配されている現実もある。

疲弊、病、責任、
心理的な制約。
努力できないことを
意志の欠如と結びつけるのは、
あまりに単純だ。

努力を義務化する社会は、
弱さを排除しやすい。

努力をどう位置づけるか

努力は、
結果を保証しない。
しかし、
無意味でもない。

努力は、
自分がどの方向を向いて生きたかを
自分自身に示す行為でもある。

それは他者からの報酬よりも先に、
自己との関係に作用する。

結び――努力に期待しすぎないという誠実さ

努力は、
必ず報われるわけではない。
そして、
必ず報われるべきものでもない。

だが、
努力を無視する社会は、
人の尊厳を損ないやすい。

必要なのは、
努力を神話にしないこと。
そして、
努力しなかった人を
即座に裁かないこと。

努力を一つの要素として、
静かに位置づける。

その距離感こそが、
努力をめぐる期待と現実の間で
私たちが持ちうる
最も誠実な態度なのかもしれない。

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