速さと価値の取り違え
効率は、
現代社会において強く求められる価値だ。
速く、無駄なく、成果を最大化すること。
それは合理的であり、
善であるかのように扱われる。
だが、
効率は本当に善なのだろうか。
それとも、
善と誤認されているだけなのだろうか。
効率は目的ではない
効率とは、
本来「手段」に関する概念だ。
同じ目的を達成するために、
より少ない時間や資源で済むこと。
それが効率の定義である。
にもかかわらず、
いつの間にか
効率そのものが目的化される。
速いこと、
多いこと、
削減されていること。
それらが無条件に評価されるとき、
何のために効率化しているのかが
見えなくなる。
効率が生む恩恵
効率がもたらした恩恵は、
決して小さくない。
医療、物流、通信、エネルギー。
効率化によって、
多くの人が
安定した生活を手に入れた。
限られた資源を
より多くの人に届けるためには、
効率は重要な要素だ。
この点で、
効率は確かに善に近い側面を持つ。
効率が切り捨てるもの
一方で、
効率は常に何かを切り捨てる。
回り道、
試行錯誤、
無駄話、
沈黙の時間。
それらは成果に直結しにくく、
非効率として排除されやすい。
だが、
意味や創造性、
関係性の多くは、
こうした「無駄」の中から生まれる。
効率は、
価値を測る尺度としては不十分だ。
効率が人を評価するとき
効率が基準になると、
人は成果単位で評価される。
どれだけ早く、
どれだけ多く、
どれだけ安定して生み出せるか。
この評価軸は明確だが、
人間の多様性には合致しにくい。
効率に適応できる人と、
そうでない人の差は、
能力以上に
環境や体調に左右される。
効率は中立ではない。
効率の暴走
効率が善として固定化されると、
疑う余地が失われる。
なぜ急ぐのか。
なぜ減らすのか。
なぜ最適化するのか。
その問いが立てられないとき、
効率は暴力に変わる。
人の都合や感情、
回復に必要な時間は、
計算から除外される。
効率をどう扱うか
効率は、
善でも悪でもない。
文脈次第で、
有効にも危険にもなる。
重要なのは、
効率に判断を委ねないことだ。
目的を先に問い、
効率は後から選ぶ。
この順序を保てるかどうかが、
社会の成熟を左右する。
結び――遅さを許容する倫理
効率が求められる時代だからこそ、
遅さを許容する倫理が必要になる。
考える時間。
迷う余地。
立ち止まる自由。
それらは非効率だが、
人間的だ。
効率を使うことと、
効率に支配されることは違う。
善であるかどうかを
効率自身に決めさせない。
その距離感こそが、
私たちが持ちうる
ひとつの誠実な態度なのだと思う。
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