理解できない自分を受け入れられるか

わからなさと共にいるという選択

「自分のことは理解すべきだ」と、
私たちはどこかで前提にしている。

なぜそう感じるのか。
なぜその選択をしたのか。

理由を言葉にできることが、
「自分をわかっている状態」だと考えられている。

だが実際には、
説明のつかない感情や行動に出会うことも少なくない。

そのとき、
私たちは少し戸惑う。

理解できない自分は、
どこか不安定に見えるからだ。

では、
その「わからなさ」は受け入れるべきものなのだろうか。

理解は安心を生む

自分を理解できるとき、
私たちは一定の安定を得る。

なぜそうなったのかが分かれば、
出来事は整理され、
自分の中に位置づけられる。

曖昧だったものに意味が与えられることで、
不安はやや和らぐ。

また、
他者に対しても自分を説明しやすくなる。

この意味で、
理解は自分と世界をつなぐ手段でもある。

だが、すべては理解できない

しかし、
すべてを理解することは難しい。

感情は必ずしも一貫せず、
思考と行動が一致しないこともある。

「なぜかわからないが、そう感じた」
という状態は、
珍しいものではない。

むしろ、
そのような曖昧さは日常の中に常に含まれている。

理解できないという事実は、
異常というより、
自然な状態の一部とも言える。

理解できなさは欠落なのか

ここで一つの見方が生まれる。

理解できないことは、
不足や未熟さの表れなのか、という問いだ。

確かに、
言語化や整理が進めば、
見えてくるものはある。

しかし一方で、
すべてを言葉にすることが
適切とは限らない。

感情や衝動の中には、
あえて形を与えないほうが保たれるものもある。

そう考えると、
理解できなさは単なる欠落ではなく、

「まだ触れていない領域」や
「あえて残されている余白」
とも捉えられる。

受け入れるとは、理解することではない

ここで「受け入れる」という言葉を考える。

それは、
理解した結果としての肯定ではない。

むしろ、
理解できない状態のまま、
否定せずに置いておくことに近い。

理由がわからなくても、
そこにあるものとして扱う。

整合性がなくても、
排除しない。

それは、
曖昧さを抱えたまま関係を保つ態度とも言える。

結び――わからなさを残す余白

理解できる自分は、
確かに扱いやすい。

だが、
理解できない自分もまた、
確かに存在している。

そのどちらかを完全に選びきることは、
難しいのかもしれない。

理解しようとする動きと、
理解できないままにしておく余白。

その両方を持ちながら、
私たちは自分と関わっている。

「わかること」を増やすことと、
「わからないままにしておくこと」。

そのバランスは、
どこに置かれるべきなのだろうか。

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